「ランナー」としての自分であること

鈴木 すずさん

すずさんは言います。「ずっとランナーでいたい」と。人生の途中でランニングに出会い、これからもずっと走り続けていくことを決めているのです。


すずさんは周りの人からとても好かれます。一見とっつきにくい感じを受ける人もいるかもしれませんが、人懐こい笑顔で愛情の深さが随所に漏れてしまっています。嘘がなく、自分にも他人にも正直で、自身の本質を飾るところがありません(見た目には飾るかもしれませんが)。ドライさとウェットさを純度高く併せ持つ、そんなすずさんがどのようにランニングに出会うことになるのか、お話を聞きました。


小学校時代

昔から背は大きく、でも今と違って横にも大きな、大柄な子供だったとのこと。悪ガキの一面もあったとのことでしたが、一方で両親共に教育者で、経営していた塾で勉強していたこともあって、「宿題は出さないけど、100点は取る」というような子供でした。お父さんは77歳になる現在も塾の運営を続けていて、教壇にも立っています。そのお父さんの塾に小学校から高校まで通っていたことで、塾長の子供として悪い成績は取れない、というプレッシャーもありました。

また、身体の大きさから来る周囲の期待を感じて、サッカーや野球、水泳など多くのスポーツ活動にも参加していました。お父さんが野球が好きで、甲子園を目指すような発言をしたことも。「スポーツ少年を演じていたところもありました」。


中学校時代

中学入学後、最初はサッカー部への入部を考えます。しかし、サッカー部が行っていた、300メートルを15周走る練習、今では問題ない距離ですが、これがやはり嫌で入部には至りません。当時はマラソン大会なんかがとても苦手だったとのこと。「何か月も前から憂鬱になるくらい大嫌いでした」。

結局、身体が大きいことに目を付けた顧問の先生に誘われる形で柔道部に入部し、3年間続けることになります。この時に武道と出会ったことがその後の人生にも影響を与えたとのこと。「やはり礼節を重んじる、武道の精神を学んだことは今に生きています」。レースの後にコースに向かって必ず礼をするのもここから来ているのかもしれないと話してくれました。

またこの頃からファッションにも興味を持ち始めます。お姉さんの読んでいたファッション雑誌を見て、「面白い世界があるな」と。


高校時代

高校は家から距離のある、学年で19クラスもある大規模な私立高校の特進コースに進みます。周りのレベルが高い中でなかなか勉強についていくのが難しく、それまで得意だった英語や数学でも良い点が取れず、だんだんと勉強をしなくなってしまったことがありました。そんな際にお父さんに呼び出されます。それまで勉強しろとは一切言われてこなかったのですが、そんなお父さんから「このまま勉強をしないのなら家の近くの県立高校に編入する方法もある」という選択肢を示されます。そこから気を引き締めて、勉強を再開、最後まで特進コースに残って高校を卒業することになりました。「父から、主体性を尊重する形で声をかけてもらったことには感謝しているし、客観的に見てもいい形で育ててもらったと思っています」とすずさんは感謝の言葉を口にします。そう、すずさんは口に出すことを恐れません。


大学時代

大学では英語を専攻します。英語の仕事をしたい、とずっと思ってきました。お父さんがメインで教えていたのが英語、「父の背中を見て、英語を教えるってかっこいいなって」。

それで、入学当時から英語の予備校講師を目指していました。正にお父さんを追うような形ですね。

一方で、ファッションへの興味が高まります。インディーズブランドやパンクファッションを好きになっていきます。70年代のニューヨークパンクやロンドンパンクのファッションに傾き、お金を洋服につぎ込んでいきます(それでそこから痩せ始めたとのこと、今のすずさんの体型に向かっていきます。ちなみに運動は大学時代はゼロとのことでした)。


進路を決める

当初はお父さんの影響で英語を教えることを志していたのですが、卒業前にはファッションへの思いが大きくなり、その方向に進むことを決めます。「手紙を書きました。父に。進路を決めたときに」。大学に行かせてもらって、お父さんと同じ英語を専攻して、仕事にもしていきたいと思っていた、お父さんも期待していたところもあったと思います。でも好きなファッションの道に進む。そしてお父さんから、とても素敵な手紙が届きます「英語を教えることは俺のライフワークだけど、お前がそれを踏襲する必要はない。俺はお前がやりたいことをやっているところが見たい。お前は自分の人生を生きろ」と書かれていました。


就職後

ファッションを仕事にということで就職活動をしますが、就職氷河期でもあり、なかなか希望の職に就くことが難しい状況でした。色々なアルバイトで繋ぎながら、まずはようやくブランドの販売員の仕事に就きます。その後、職場の状況の変化や、人との縁もあり、転職をいくつか経ていくことになります。27歳くらいの時に、ファッションが好き、あと文章を書くのも好きということに気付いて、ファッション系のライターを目指します。本を読むのが好きで、当時始まっていたミクシーなどのSNSにかなり長い日記的な文章を書いていて仲間内で好評でした。転職活動をする中でウェブ系のファッションサイトの編集の仕事が見つかります。当時はECという言葉もないときで、ファッションウェブサイトで編集兼ライターとしての仕事、今にもつながる仕事が始まります。30歳でより大きい会社に転職、その後現在の職場である会社に転職し、現在もそこで働いています。

すずさんは、仕事の選択においても、考えて、立ち止まって咀嚼して、決断してきました。そして現在のチャレンジを続けることができる仕事と出会いました。「まだまだここでやりたいことがあります。楽しくやれています」。


ランニングとの出会い

こんな風に生きてきたすずさんが28歳を過ぎてついに、今後の人生でも傍らに居るものとなるランニングに出会います。最初は(洋服が似合うようにと)体型維持のために、ある種いやいやながら始めます。最初はジムで、その後、家にあったバンドTとショートパンツとアディダスのスーパースターを身に着けて、当時住んでいた下北沢の緑道を、一人で1回に2キロほど走りはじめます。走り出してしまえば、「思ったほど悪くない」。そして結局そこから一度もやめずに約20年間ずっと走り続けていることになります。

走り始めて3年ほどたったころ、ふと思い立って東京マラソンに応募、高い倍率のなかで当選します。そこからいろいろランニングについて調べたり、サブ4という言葉を知ったり、またそれを達成するためのモチベーションも生まれてきたりと、ランナーに向かっていくことになります。年に何度かレースに出るようになっていく中で、当時の職場でもスポーツに注力する動きがあり、会社にランニングチームを作ることになります。それが他の人と一緒に走りはじめる最初となりました。走りはじめてから10年ほどが経過していました。

その後、ランニングブランドのエルドレッソを主宰する阿久澤さんと仕事で出会うことになります。下北沢の飲み屋でもちょくちょく顔を合わせるような間柄になり、そしてお互いがランナーであることが判明します。二人とも三軒茶屋の在住ということもあり、どちらかともなく誘いあい、ランニングもすることになっていきました。その繋がりからフイナムランニングクラブの存在を知り、コミュニティに参加することで一気に知り合いの輪が広がっていくことになります。更にはここでトレイルランニングとも出会うことになりました。

初めてのトレイルランニングレースはフイナムチームと一緒に出た野沢温泉でのリレーのレース。それが2018年。そこから更にトレイルの世界が開けていき、現在までにUTMBを含む100マイルレースをいくつも完走するようなランナーとなっていきました。


ランニングの好きなところは圧倒的に「自分と対峙できること」とのこと。更に「武道と通じることもありますが、準備の過程、そのプロセスこそが大切であると、それはマラソンにしても100マイルレースにしても同じと思っています」。

今後のイメージを聞くとこんな風に答えてくれました。「ずっと走っていたいです」。レースがあるからそのための練習ということではなく、とにかくランを続けていたい。サブスリーを目指す、という方向性ではなく、「ずっとランナーでいたい、70歳でもマラソンを走る人になりたい」とのこと。ずっと「ランナーの自分でありたい」という思いがそこにあります。


すずさんは、自分と対面し、自分が何を好むかを理解して、それを掴んで、育ててきたように思います。他人と比べず、自分の論理を信じて、発信します。でも決して独りになるわけではなく、仲間との絆を大切にして、両親を大切にする心を持って進んでいきます。


そんな「ランナー」すずさんのお話でした。


Profile

鈴木 すずさん

UI/UXディレクター/ライター/ランナー

1977年生まれ、茨城県出身。獨協大学外国語学部英語学科を卒業後、ファッション業界に身を投じる。10代後半からファッションに情熱を注ぎ、28歳でランニングを始める。現在は株式会社パルの自社ECサイト「PAL CLOSET」でUI/UXディレクターを務める傍ら、フリーランスのライターとして活動中。フルマラソンの自己ベストは3時間14分21秒、UTMB 2023完走。